目には見えないけれど、たいせつなもの ― 佐々木成美個展「●」に寄せて

 

渡辺真也

 

佐々木が描いているのは、絵画を可能にしている、絵画の向こう側にある世界です。身体を持つ私たちは、自分の目の前にあるものだけを「見る」ことができます。しかし、どうしたら、私の目の前にる「見える」世界の向こう側にある、あちら側の「見えない」世界を描くことができるのでしょう?

 

絵画はきっと、こちら側の「見える」世界だけでなく、あちら側の「見えない」世界も含めた全体を描くことができるはずだ ー そう考えた所から、佐々木の創作が始まりました。こちら側からは見ることのできない「向こう側」を覗こうとする佐々木の発想は、作品の中に「穴」を大胆に登場させる手法に顕著に現れています。

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#1《その若い職人はついに帰らなかった》では、格子状に塗り分けられた緑色のキャンバスの表面がくり抜かれて穴が空いています。その穴の先には、キャンバスが貼られている木枠の上に置かれた、三角形の黒い石が見えます。緑色の線が生み出す傾斜から、これがどうやら鉱山で、中に置かれている石が鉱物であることが伺えます。

 

佐々木はこの作品を、二つの物語からインスピレーションを受けて作りました。一つはホフマンの幻想小説『ファールンの鉱山』、もう一つはロシアのウラル地方の民話『石の花』です。

 

『ファールンの鉱山』では、老鉱夫からファールンの鉱山へと誘われた船乗りのエーリスは、そこで鉱山主ペールセンと娘のユッラに出会います。ペールセンのもとで立派な鉱夫となったエーリスはユッラに思いを寄せるのですが、突如地下の坑道にあの老鉱夫が現れて、大地の女王を敬わないと女王の怒りを買う、ユッラを女房にするな、と告げられます。老鉱夫のことをペールセンに話すと、それは100年以上前にいた鉱夫トールベルンで、山の守り神だと教えられます。

 

身分の違いからユッラとの結婚を諦めていたエーリスに、ペールセンは突然「ユッラを大商人の所に嫁にやる」と言い放ちます。余りのショックから、坑内の最深部まで行ってしまうエーリス。すると目の前に大地の女王が現れて、エーリスを抱き寄せます。救出にやって来たペールセンは「君の気持ちを確かめるため一計を案じただけだ」と言って二人を婚約させるのですが、エーリスには「お前は地の底の王国に身を捧げたはずでないのか!」という老鉱夫トールベンの怒りの声が聞こえて来るのでした。

 

地上での時間をユッラと過ごしたエーリスには、自分の幸福が大地の女王の力に揺るがないかに思えました。しかし再び坑道へと降りたエーリスの気持ちは、地上のユッラへの思いと、地底への思いとに分裂し、次第に地底の美しさを讃える自分こそが本当の自分だと思い始めてしまうのです。

 

結婚式当日、「僕たちの運命が刻まれた鉱石を掘り出してくる」とユッラに告げたエーリスは失踪、結婚式会場に駆け込んで来た鉱夫が落盤事故を告げると、ユッラは「ああエ―リス、あなたは死んだ!」と叫んで倒れます。それから50年後、鉱山で石化した若い鉱夫の死体が見つかります。運び出された死体を見た老女ユッラは「あたしのエーリス!」と叫んで遺体を抱くと息絶え、石化したエーリスの遺体は灰となって崩れるのでした。

 

一方のウラル民話『石の花』では、石細工職人の弟子となった孤児のダニーロは、貴族の依頼で孔雀石の細工を完成させると、今度は貴族から、花の形をした鉢を彫るよう命じられます。しかしダニーロは、人に指図された作品ではなく、自分が美しいと思う作品を作りたいと思い、こう言います。

 

「石の美しさってものがどこにあるかってことなんだ。いいかい、ここに石のもようがでてるとするよね、すると、そこに穴を開けて、花を彫るだろう。だけど、そんなこと、なんのためにするんだ?石をだいなしにしてるんじゃないか。しかも、その石がどんなものだと思う?最高の石なんだよ。いいかい、最高のなんだよ!」

 

それを聞いた先輩は、そんな考えをしていると山の女王に捕まってしまう、と石の花の美しさを引き合いに出しながら警告します。石の花の話を聞いたダニーロがそれを見たいと言うと、許嫁のカーチャは泣き出してしまいます。石の花のことが頭から離れないダニーロは、グミョーシキ銅山で発見した孔雀石を持ち帰って彫り始めるのですが、どうも上手く行きません。ダニーロの頭が変になってしまったと思ったカーチャがまたも泣き始めると、目を覚ましたダニーロは制作を辞めて、カーチャに結婚を申し出ます。

 

しかし、どうしても石の花を見たいダニーロは、再度山に向かうと、そこで銅山の女王に出会います。ダニーロは女王に、もうこれ以上制作は続けられない、せめて石の花を見せて欲しい、と懇願します。すると女王は、もう一度頑張りなさい、そして愛する親方やカーチャを大切にしなさいと説きます。それでも石の花を見たいと懇願するダニーロが女王の庭でついに目にした石の花は、それは見事な石細工でした。

 

元の穴の上に戻ったダニーロは、作りかけの盃を壊すと失踪してしまいます。ダニーロを探し続けるカーチャは、近寄って来る求婚者たちを撥ね付けると、自ら石工となり傑作を生み出し、グミョーシキ銅山へと向かいます。そこに山の女王が登場、ダニーロを返して欲しいと懇願するカーチャに「愚かな娘だ」と返答します。「あなたは愛し合っている私たち引き裂こうとする悪女だ」と食ってかかるカーチャに、女王はダニーロの意見を聞いてみようと提案、カーチャとダニーロは石の花のある庭で再会します。「この娘と一緒に行くのなら、ここでの出来事は何もかも忘れなくてはならない」と告げる女王に、ダニーロは「カーチャのことは一分も忘れたことがない」と返答、負けを認めた女王は、ダニーロを連れて行くことを許すのでした。

 

この大変良く似た二つの物語のテーマは、美という理想の世界と現実の世界との乖離、そして冥界下りにも似た、主人公の死と再生です。美に取り憑かれてしまった主人公たちは理想を追い求めた結果、理想世界に足を取られてしまい、愛する人の待つ現実世界に戻れなくなってしまいます。無機質かつ冷たい死の領域に囚われた主人公は、仮死状態に至ります。

 

イスラム神秘主義として知られるスーフィーの哲学イブヌ・ル・アラビーは、地上の人には絶対に見えない、地中深く埋め隠された「秘めた宝」という言葉を使って、「神」という名や認識を超えた絶対者が姿を顕わす過程を表現しました。つまり無意識の底へと向かう探究者が、意識の領域の深淵で最後に出会うのが「神」で、「神」に別れを告げた芸術家は、地中深く埋め隠された「秘めた宝」というイメージの貯蔵庫に向かって、命懸けのダイブを試みるのです。

 

この二つの物語の最大の違いは、『ファールンの鉱山』では主人公は50年後に遺体として発見され、かつて愛を誓った女性と共に消え去るのですが、『石の花』では主人公は女性の愛を受けて蘇生するという点です。それはあたかも鉱物が熱と圧力を受けて再結晶化するかのようであり、15歳で夭折した婚約者ゾフィーの墓前で霊感を受けて詩『夜の讃歌』を書き上げたドイツロマン主義の詩人ノヴァーリスが鉱山技師だったことをも彷彿とさせます。

 

絵画にとってプロセスが重要だと語る佐々木は、2014年に、絵画の向こう側にある「何か」を描こうと試みる中で、突如として絵が描けなくなってしまうという挫折を味わいました。その頃、地元の埼玉で畦道で区切られた田んぼを眺めた佐々木は、そこに「世界」を感じ、私もこの田んぼの一部であり、その上に月、すなわち「穴」があるのだと直観すると、絵画そのものが「こちら」と「あちら」を繋ぐ洞窟として新たに立ち現れて来たと話します。

 

事物を分ける存在論的境界線のことを、荘子は「封(ふう)」や「畛(しん)」と呼びましたが、これは「耕作地の間の道」を意味します。すると佐々木が田んぼで感じた「世界」とは、畦道で区切られた田んぼが、それぞれ繋がって全体を成すように、近代によって切り離されてしまった「わたし」の存在は、自然という全体の一部として可能になっていて、さらにこの「わたし」が世界全体と繋がっているということを再認識するという、言わば再結晶化のプロセスだったと考えられます。

 

この再結晶化のプロセスを経た佐々木は、絵画のあちら側の「見えない」地下世界を、こちら側の「見える」地上世界へと引き上げることを可能とし、絵画制作を再開しました。#1《その若い職人はついに帰らなかった》に登場する丸い穴の中に置かれた三角形の石には、「わたし」という存在の核は、愛する人の熱を受けて再結晶化できるという願いが込められているかのようです。

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#2《月と穴》では、大きなキャンバスの上に、左右で色の異なる円が、まるで半月のように描かれていて、キャンバスの右上方からは、親指と人差し指で輪を作った右手が、壁から突き出しています。それはまるで指先で作られた穴から覗いたその先に半月が浮かんでいるかのような、不思議な関係を生んでいます。

 

この円の絵画と輪の彫刻の関係からは、宗教学者のアンリ・コルバンとミルチャ・エリアーデから、神秘思想家スウェーデンボルグと大乗仏教の類似について尋ねられた鈴木大拙が、突如スプーンを掲げて「このスプーンは今、楽園に存在している。我々は今、天国にいるのだ」と述べた話が思い出されます。

 

通常スプーンは食事に使用する道具ですが、一旦その文脈を外れると、異なる意味を持つことがあります。その格好の例が、『ウルトラマン』の第34話「空の贈り物」です。怪獣を追い払い、安心してカレーを食べている地球防衛隊員の元に、航空自衛隊が誤って怪獣を撃ち落としてしまったとの通報が入ります。慌ててウルトラマンに変身しようとしたハヤタ隊員は、誤ってカレーのスプーンを頭上に掲げてしまうのです。

 

すると、そのテレビ放送を見た子供たちは、スプーンをウルトラマンへの「変身道具」として使い始めました。つまり子供たちにとっての「スプーン」は、もはや「食事道具」ではなく、ウルトラマンへの「変身道具」となったのです。それと同じく、大拙が天に掲げたスプーンは今、楽園に存在していて、その考えを共有する私たちは今、天国にいることになるのです。

 

そこから、食事道具としての「スプーン」は、あくまでも言語によって恣意的に規定されたものに過ぎず、その枠組みから一旦外れてしまえば、「スプーン」としての機能を持たなくなることが分かります。つまり、他者との関係に依存する言葉によって指示されたもの、「名付けられたもの」の中にしか、「食事道具」としての「スプーン」という意味は生まれないのです。大乗仏教は、これを「空(くう)(梵: Śūnyatā)」の概念として説明しますが、言語学では、意味するものをシニフィアン、意味されるものをシニフィエと呼びます。この場合、スプーンという言葉がシニフィアン、物体としてのスプーンがシニフィエに相当します。

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スウェーデンボルグと同じく、大拙は精神と物質の間に完全な区別はないと考えていました。つまり精神の現れとしての物質の中に、精神を見ようとしていたのです。この精神と物質の双方向性という問いこそ、佐々木が常々試みていた、右上図のような、絵画の向こう側にある「何か」(=精神)を、キャンバス(=物質)に描くという行為だと考えられます。

 

そこに「ある」にも関わらず、まるで「ない」かのように見える「穴」のような半月の絵画と、指先を開けば「ない」ものになってしまう現象としての「穴」を形作る手の彫刻を、佐々木は「ある」と「ない」が相互依存するような関係の中で見せています。井筒俊彦の著書『コスモスとアンチコスモス』から影響を受けた佐々木の描き出す世界観は、この本で述べられた、ありとあらゆる事象が互いに浸透し合い、全体的関連においてのみ存在しているという華厳経の世界観にとても良く似ています。

 

華厳経の存在論には「事(じ)」と「理(り)」という対概念があります。華厳思想の最初の段階が「事」で、それが次第に「理事無礙」や「事事無礙」へと発展して行きます。

 

「事」とは、存在論的境界線によって互いに区別された「事(もの)」のことです。私たちの生活の中にある数限りない「もの」は、「名」づけられることでそれぞれが自律し、自分の存在そのものが他を否定し、他と混じり合わないことで、私たちの日常が成立しています。つまり「事」の存在世界では、無数のものが独自の「名」を持つことによって、それぞれが独立しているのです。しかし、それぞれの「事もの」を生み出す差異の原理(自性)は、人間の妄念に過ぎません。本当は実在しない自性を実在だと思い込んでしまう妄念によって人は真実を見誤ってしまうのだと、仏教は説きます。

 

一方の「理」とは、否定から肯定に向きを変えて「有」へと転換した「空(くう)」のことです。本来は「空」であり無分節である「理」が、一切のもの、一つ一つのものという形で、その全体を挙げて自己分節的に、それぞれ「事(もの)」として私たちの目に映ります。この本来は無分節な「理」が、分節化した世界で「事」的に顕現することを「性起」と呼びます。その一方で、全てのものが他の一切のものを縁として、同時に起こって来ることを「縁起」と呼びます。

 

この何の妨げもなく、互いに関係し合う「理」と「事」の実相、言わば「水と波の関係」が「理事無碍」です。その一方、ありとあらゆる事物や事象が互いに浸透し合い、全体的関連においてのみ存在しているという存在論的思想、言わば「波と波の関係」が「事事無碍」です。すると「性起」と「縁起」の違いとは、「性起」が理事無碍的側面、すなわち「水と波の関係」から世界を眺めたもの、「縁起」が事事無碍的側面、すなわち「波と波の関係」から世界を眺めたものの違いに過ぎないことになります。

 

「理」と「事」とが完全に通じ合い、まるでインドラ神の宮殿に懸かる宝珠の網のように、相即相入し全ての世界を含んでいる ― これが華厳経の世界観で、すなわち華厳哲学における存在とは、相互関連性そのものなのです。

 

この相互関連性の中における「事(もの)」の存在には、「有力」と「無力」という働きの違いがあります。「事事無碍」の状態では、全ての「事(もの)」の間には妨げが無いので、AはAでありながら、BでもありCでもあります。そうであってもAはAであるのは、私たちがそこに「有力」な要素を見ているからです。

 

華厳哲学では、一度外した枠をまたはめ直してものを見る際、スーフィズムにおける「複眼の士」のように、存在における「有力」なものだけではなく、不可視の暗闇の中にある「無力」なものの両方を見ます。つまり「複眼の士」としての佐々木は、「事(もの)」の存在の中に「有力」なものと「無力」なものの二つを見出し、それを再結晶化した絵画を描いているのです。

 

四角いカンバスに描かれた円相は、あたかもレオナルド・ダ・ヴィンチが裸体の男性の手脚を円と正方形の上に内接させて「人体の調和」を表現した《ウィトルウィウス的人体図》や、古代中国の宇宙観で、方形の地球の上に、円運動で表される星の運行を重ねた「天円地方」を彷彿とさせるものがあります。それはすなわち、自然の一部としての身体は宇宙そのものであり、だからこそ瞑想を通じて自己の内部に近づいて行けば、きっと世界に繋がるはずだという、マクロコスモスとミクロコスモスの一致を謳う神秘主義思想に近づいて行きます。

 

印相を彷彿とさせる手の形は、私たちを仏教的な世界観へと誘います。この手が形作る輪は、まさに空の世界そのものです。指先を離せば、指が形作る輪が消滅するように、言葉が無くなれば、その言葉が指していた「事(もの)」も消滅します。すると、指先で作られた穴から覗いたその先に「ある」月は、指先を開けば消えてしまうのでしょうか?

 

満月の夜、月に向かって腕を伸ばし、人差し指を立ててみると、月は指先の爪の中に隠れてしまいます。これを観察する人の目には、月は自分の指先の爪とほぼ同じ大きさに見えますが、それは爪の大きさと腕の長さの比が、月の大きさと月までの距離の比に等しいからであって、爪の大きさと太陽の大きさが等しいわけではありません。かつてスピノザは「我々が太陽をこれほど近いように表象するのは、太陽の真の距離を知らないからではなく、精神は身体が太陽から刺激される限りにおいて太陽の大きさを考えるから」だと述べましたが、一見近くにあるかのように見える、まるで空に空いた穴のように見える月には、触れることはできません。

 

私たちの頭上に、ぽっかりと空いた穴のような月の先に、私たちはまだ行っていない、すると、もしも私たちの住む宇宙が多次元空間だとしたら、穴と穴とを繋ぐことができれば、その距離を無効化してワープできるかもしれない-そう考えた佐々木は、この作品を、絵画という平面作品を、手の立体作品との関係の中で見せることによって、あたかも立体曼荼羅であるかのような性格を持たせています。そこでは境界線が滲んで行き、華厳経の「事事無碍」の世界が立ち現れているかのようです。

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#3《無数の房》では、惑星軌道のような螺旋の延長線上に、上が緑、下が赤という補色で塗られた球体が、バランス良く連なっています。これらの球体は、まるでインドラ神の宮殿に懸かる宝珠の網の上で、上昇と下降、拡大と縮小を繰り返しているかのようです。佐々木の描き出すミクロコスモスとマクロコスモスの一致は、ライプニッツのモナドや、華厳経におけるインドラの網の世界観と一致していて、それは華厳経から発達した南方熊楠や宮沢賢治の世界観とも共鳴しています。

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#4《Venus》は、NASAが撮影した太陽の前を横断する金星の写真から着想を得た作品です。写真に収められた、太陽の前を横切る真っ黒な金星は、まるで穴のようです。それもそのはず、地球から見て、普段は太陽の光を反射して光を放っている金星は、太陽の前を通過する時には真っ黒な影となり、あたかも穴のように見えるからです。そこに「ある」金星が、まるで「ない」かのように見える面白さ描いたこのキャンバスの真上には、ミルクの王冠のような形のガラスが置かれ、まるで太陽コロナが熱を放っているかのようです。

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#5《引力》の縦長のキャンバスには、円錐状に反映し合う、はっきりと描かれた上の黒い円と、滲んで消えていく下の黒い円が描かれ、手足のように左右に伸びる棒からは、紐に括られた鉱物がぶら下がっています。このキャンバスと立体の関係は、あたかも頭と腕を持つ身体であるかのような印象を与えます。

 

この反映し合う二つの円からは、カメラの構造をひっくり返すと引き伸ばし機になり、マイクの構造をひっくり返すとスピーカーになるような陰と陽の関係が感じられます。ルドルフ・シュタイナーは、東と西、男性と女性、寒と暖、生と死など、一元的な世界の中で一つになる陰と陽のように相反する二つのものを「ペア・カテゴリー」と呼びました。ここに登場する二つの円と二つの鉱物は、あたかも「ペア・カテゴリー」であるかのように、上下と左右に、バランス良く配置されています。するとこの鉱物と円は、まるで男女のペアであるかのようです。

 

地球の引力を受けて垂れ下がる鉱物によって強調される上下の移動は、エントロピー最大化、すなわち死を意味しているのかもしれません。死によって生の概念が始めて可能になるように、生がなければ死もなく、死がなければ生もありません。するとこの上下の移動は、この世に生まれ落ちてから死んで行くまで、すなわち誕生から死までの時間を表しているかのようです。

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1990年9月9日に生まれ、1999年9月9日に9歳を迎えた佐々木は、1922年2月2日に生まれ、2という数字を生涯に渡って作品に取り入れ続けた松澤宥をとても身近に感じると言います。9という数字を見るとドキドキするという佐々木は、#6《九年の眠り》において、松澤が生涯を通じて使用し続けた、9つのマス目によって成立する金剛界曼荼羅の構造を、大胆に採用しています。

 

ユングの影響から曼荼羅に興味を持ち始めた佐々木は、この曼荼羅型の作品をドローイングから発達させる形で描きました。9の数で構成される金剛界曼荼羅は、中央のマス目から下へ降りると右螺旋状に発達して行きます。地下・地上・天上の三界に分かれたキャンバスの真ん中には穴のようなものが描かれ、その周囲に頭部、目、耳、臓器が描かれています。つまり佐々木は、宇宙の現れとしての人体を、ここに描いているのです。チョークで描くことで画面に完全に定着させていないこの絵画は、あたかも浮遊しているかのような印象を与えます。

 

興味深いのは、1990年に「生」まれて1999年に9歳になった佐々木は、この「生きている」状態を「眠り」と捉えている点です。人生を、受胎から出生まで、出生から死まで、そして死後の3つに分けたグスタフ・テオドーア・フェヒナーは、胎児の生が一種の持続睡眠であり、生まれてからの生が睡眠と覚醒との往復運動であるとすれば、死後の人生はおそらく一種の持続的覚醒状態であってもよかろう、と述べました。このように生きている状態を眠りに、死んでいる状態を覚醒として捉える考え方は、2つの場所で同時に「生きている」と「死んでいる」状態でいられるシュレーディンガーの猫を彷彿とさせ、松澤宥の「量子芸術」を推し進める試みとも言えます。

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#7《手》に描かれた黄金の手には、6本の指が描かれています。今回の個展のDMに印刷されたドローイングも、一つの人体から三本の手が延びたものでした。それはまるで第六感、すなわち直観を表す「神の手」であるかのようです。

 

身近に持てる神様のイコンとして、黄金に輝く小世界を描きたかったと言う佐々木の姿勢からは、『黄金の華の秘密』という、中国道教の瞑想と錬金術の書『太乙金華宗旨』にユングが解説を書いた本のタイトルが思い浮かびます。内なる男性と女性の統合を成し遂げる瞑想は、異なる原理の二つを結びつけることで完成を目指します。物質から離れて完全に相互浸透的となった二つの存在は、「光」の性質を手にするのです。

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#8《この遠くにある部屋では…》という長いタイトルが付けられた作品では、グリッド状に編まれた荒い縄の上に細い紐が螺旋状に広がり、その縁からは、石を結えた箇所が垂れ下がっています。ここにも曼荼羅をイメージさせる渦巻が登場し、縄には#3《無数の房》と同じく、赤と緑の補色が含まれています。複数の荒縄から成る網目の上を、一本の細い紐が渦巻き状に進んで行く様子は、「同じ」だけれど「違う」二つの紐が干渉し合う場フィールドのようです。最後にぶら下がる石と網との「関係」は、石と鉄板、ガラスやステンレスの棒などによって構成される李禹煥のインスタレーション《関係項》のシリーズを思い起こさせます。

 

この長いタイトルは、佐々木の無意識の奥底から出て来た二人の女性と一匹の猫をモチーフにしたものです。佐々木は編み物をしながら、言葉が物質だということは分かるのだけれど、それが遠のいて行くイメージがあったと語っています。

 

ここに登場する「ドアがない」という言葉は、ライプニッツの『モナド論』に登場する「モナドには窓がない」という言葉を彷彿とさせます。部分を持たないモナドには「窓がない」ので、複合的なもの同士が関係するような意味において「関係」することはできません。これは先に述べた華厳思想の「事」の思想に極めて良く似ています。しかしこの作品では、それぞれ性質の異なるものが干渉し合って一つの作品を生み出しています。すると、この作品に登場する網も、あたかもインドラの網であるかのように、相互関連性こそが存在であることを表しているかのようです。

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#9《この時刻に生まれた子どもは幸せになる》では、キャンバスの中心よりも上に、温かみのある人肌の色で円が描かれ、その上には、円よりも一回り小さい丸い木のオブジェが置かれています。二つの色で塗り分けられた円は、まるで半月であるかのようです。

 

半月とは、太陽光を反射して輝く月が、太陽のちょうど真横に光っている状態ですから、地球から見た月と太陽の角度は直角となり、月と太陽と地球は直角三角形を描いていることになります。この作品からは、刻一刻と移り変わる時間の中で、特別な瞬間に生まれて来た子供を祝福したい、という佐々木の思いが伝わって来ます。

 

この作品には、佐々木がずっと描こうと試み続けていた、キャンバスの「向こう側」にあるものが、キャンバスの「こちら側」に描かれています。すなわち、木のオブジェで表現された、キャンバスの「向こう側」からやって来た子供の魂が、穴のように描かれた半月から連想される子宮、すなわち私たちの住む「こちら側」の世界の肉体に宿り、生命として誕生する瞬間が描かれているのです。

 

「この世」に生まれて来た私たちは、死して「あの世」へと帰って行きます。その連続、すなわち輪廻転生が、私たちの観測する世界を作り上げているのですが、実はこの二つは重なり合っています。生命の神秘という、神の領域に足を踏み入れた佐々木は、この世に生を受けた、行きとし生けるものの存在を肯定します。それは誰かの幸せを願うことでもあり、目の前にいるあなたに向けてではなく、どこか遠くに住む人に届くかもしれない「祈り」にも似たメッセージなのです。

 

「いちばんたいせつなことは、目に見えない」ことを私たちに教えてくれたのは、サン=テグジュペリの『星の王子さま』でした。同様に佐々木は、目には「見えない」けれど大切な、その存在が宇宙に調和をもたらし、それぞれの要素が全体に貢献しているような「弱い力」を掬い取って、絵画という「目に見える」媒体へと、あたかも錬金術のように変換しているのです。

 

儚きものに宿る命と、それを守るもの。強きものの脆さと、弱きもののしなやかさ。手の届かない所にある、超越的かつ不可知なものへの憧れから始まった佐々木の芸術は、人類の未来を照らし出す芸術の灯火となり、私たちの後に来る人たちの道標となるのです。

文 渡辺真也

美術史博士、映画監督、インディペンデント・キュレーター。文化庁新進芸術家海外研修員(2011−2013)を経て、国立ベルリン芸術大学にて博士号取得。現在はテンプル大学ジャパンにて美術史の教鞭を取る。著書に『ポニョCODE 『崖の上のポニョ』に隠された宮崎駿の暗号』(三元社、2021)『ユーラシアを探して−ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』(三元社、2020)。監督に『Soul Odyssey -ユーラシアを探して』(2016)など

​佐々木成美